飯守泰次郎

飯守泰次郎さんのシューマン、ブラームス

飯守泰次郎さんのシューマン、ブラームス

2016/12/10(土) 14:00 サントリーホール
日フィル 第686回 東京定期演奏会


湯浅譲二             始源への眼差Ⅲ -オーケストラのための
ブラームス          ヴァイオリンとチェロのための
                          二重協奏曲 ハ短調 op.102
シューマン          交響曲第3番 変ホ長調 op.97《ライン》


指揮       : 飯守 泰次郎
ヴァイオリン   : 千葉 清加
チェロ      : 辻本 玲


今日のプレトーク、広瀬大介さんのお話で演奏会が楽しくなった。
シューマンとブラームスが師弟関係にあったこと、
ブラームスが己の進む道をはっきり持って作曲しているのに対し、
シューマンはいつも迷いがあったこと、
それらの特徴がよく出た演目であること、
シューマンは《ライン》の第1楽章ではベートーベンを意識して作曲しているものの、
第2楽章から先ではその迷いが出て、作風が変化していると感じること、
第4楽章では変ホ長調なのに臨時記号によって変ホ短調になっていること、
ここに何かシューマンの特別な気持ちがありそうに感じること。

そんなことを思い出しながらシューマンを聴いた。

私も《ライン》には「なんか変だなぁ」と感じていて、それが「第1楽章だけ雰囲気違う」ということだと改めて知った。それがシューマンの「迷い」なのだとしたら音楽からそういうことを感じられるのが面白いと思う。絵画を観ていても、画家の苦悩や迷いがある時期の絵って惹きつけられる。

第2楽章から第5楽章までは止まらずに演奏され、オーケストラの緊張感も楽章が進むにつれ、どんどん高まっていくのを感じた。第4楽章から第5楽章が特によかった。音が澄んでいい演奏だったように思う。

ただ、演奏会全体を通して、飯守さんの指揮は好きになれなかった。
ドテドテ感、ゴタゴタ感、そんな擬音語になるかな。
妻は「あー時間の無駄!」「演奏が単調!」とまで、手厳しい。

もしかして、ここ10年くらいで日本のオーケストラって技術的にものすごく進化して、
一部の指揮者はその変化についていけていないのではないか、とも感じた。
ラザレフさんが振ったら、山田さんが振ったら、どんな演奏になるのだろう、とも思った。

ラザレフさんとの違い、という点は、ブラームスですごく感じた。
ラザレフさんの指揮で協奏曲を聴くと、オーケストラが完全に「伴奏」になっていて、
ソリストがスポットライトを浴びているのを感じる。
ラザレフ節もかなり抑えめで、ラザレフさんのソリストに対する敬意を感じる。
なので全体のバランスもすごくいい。

今日のブラームスは、協奏曲ではなく、交響曲のように感じた。
ブラームスの協奏曲はそういう面があるのかもしれないけど、その分を差し引いても、
「みんな俺がまとめるんだ」という飯守さんの声が聞こえてくるようで、
私としてはあまり好きになれなかった。

辻本さんと千葉さんの演奏はお二人の息がぴったり合って、
とても迫力があって、洗練された美しい音だったように感じた。

でも、ソリスト、というよりは飯守さん率いるオーケストラのパートのように感じた。
お二人の「競演」がもっとスポットライトを浴びるような演奏がよかったな。

最後にひとこと。
千葉さんはきれいだった!
衣装もとても美しく、華があった。
辻本さんももう少しおしゃれしてほしかった。それじゃいつもと一緒だよ。
(それは演奏に関係ないか・・)



201612

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日フィル 第617回東京定期演奏会(湯浅譲二+ブラームス)

1/20(土) 14:00~ サントリーホール
1/20(土) 14:00~ サントリーホール
日フィル 第617回東京定期演奏会

小山清茂  管弦楽のための《鄙歌》第2番
湯浅譲二  交響組曲《奥の細道》
ブラームス 交響曲第4番 ホ短調

指揮  :飯守泰次郎

 いつも定期演奏会の演目が決まると、CDを買い込んで「予習」するようにしている。そんなに通ではないので、知らない曲は飽きてしまうし、せっかく生で聴けるのだから少しでも予備知識を持って聴きたいと思うから。そんなわけで今回も湯浅譲二のCDを購入。私は通勤時間が短く聴いていられるのは20分ほどなので、ブルックナーなど演られると1つの楽章も聴き終わらないうちに時間切れとなり、なかなか「予習」が進まない、ということになる。それに比べて妻の通勤時間は1時間半ほど、「予習」時間が十分取れるようで、いざ本番となるとたいてい妻は準備万端なのに対し、私のほうは準備不足に陥っているのが常となる。

 今回の予習の作戦としては、ブラームスはいままで十分聴いているからまぁ、いいかな、小山さんは手に入らなかったので諦め、問題は湯浅譲二さんだ、と方針を決めた。学生の頃は現代音楽を積極的に聴いていたが最近は歳のせいか、耳から音が入っても脳の入り口で音がはね返ってしまっているような気がするときがある。これが歳をとる、ということか。何事も挑戦するのは若い頃に限る、ということか。今回もやはり、脳にコンクリートの壁ができたような感覚。総じて淡々として進む《奥の細道》からは何も伝わってこない。今回は前半を捨てるか。そんな諦めもよぎる。

 いよいよ次の週末と迫った平日のある日、妻に「予習」の進捗状況を確認するとやはり私が大幅に出遅れている。しかも私は《奥の細道》1曲に対し、妻はブラームスも合わせて予習している。さらに驚かされたのはどうやらすっかり《奥の細道》にはまってしまったようだ。「ブラームスでは寝れるけど《奥の細道》では寝れない。」どうやらそれぞれの楽章に具体的なイメージを持てるらしい。草木の生い茂る山越えの細い道、村の小さな祭り、平泉の風景など。しかも各楽章の標題や解説を敢えて読まず自分の想像力だけだという。ほぼ作者の意図と合っているではないか。さすが東北出身。私は標題のみ見て聴いていたが自分なりに持っていたイメージ、1楽章は初夏の田園風景、2楽章はまっすぐ続く砂利道を鈴のついた杖をついて歩く図、3楽章は嵐と夏の始まり、4楽章は秋が近づく山にセミの声が響く図、など、作者の意図からは遠い。でもこのように自分のイメージを膨らませてみるといままで耳ではね返っていた曲がだんだん馴染んできて音楽に感じるようになってきた。日本の自然や人、生活、そんなものを、なんと見事に西洋文化の産物の上に乗せてしまったものだ、と感心するようになった。こういう楽しみ方もあるのか。今回の「予習」は妻に助けられ何とか滑り込みセーフとなった。

 生で聴いた《奥の細道》は、なかなか素晴らしかった。繊細な弦、緊張感のある打楽器、など、予想外に入り込んでしまった。また演奏している飯守さんにも、オーケストラのメンバーにも、緊張感がみなぎっていた(私たちの席はステージを横から見下ろすので、本当に息遣いまで感じることができる。安いがいい席だ。)。曲が終わった後、その理由がわかった。なんと湯浅譲二さんが客席にいたのだ。演奏終了後ステージに上がってくれた。同じ時代と空気を共有している作曲者の曲を聴けるというのはまたよいものだ、と思った。曲を聴いて思い浮かべる風景は決してニセモノではない、と思わせてくれる。《奥の細道》は聴く私たちがそれぞれ持つ自分だけの奥の細道なのだ、きっと。

 ブラームスの4つの交響曲は学生の頃からよく聴いていた。4番は2004年2月9日に東京オペラシティでのN響の演奏に続いて2回目となる。そのときはローレンス・フォスターさん指揮の予定が急遽外山雄三さんに変更になり、がっかりした覚えがある。奇抜な演奏がよいとは思わないしそのときの自分の感性が足りなかったのかもしれないが、演奏は無難に感じ欲求不満で会場を後にした覚えがある。演奏が上手いのと心に響くのは違うのだ。

 この日の4番は心に残るものだったと思う。いつの聴いているベーム+ウィーンフィルのCDとは違って悲しさ苦しさが前面に出ているような演奏だった。最初の出だしも息をのむような緊張感。少し長めに取った第一音にも気合を感じた。すすり泣きというより泣き叫ぶようなヴァイオリンが胸に迫る。いつも日フィルの金管、特にホルンには感心するが、この日の第2楽章出だしのホルンは少しがっかりした。もっと遠くから聞こえてくるようなホルンをイメージしていたため、あまりに強烈な音にびっくりした。上手い下手ではないのかもしれない。自分の持っているイメージ通りかどうかということだけかもしれない。それでも前半に続いて緊張感のある演奏に引き込まれた。また自分のイメージと少し違う演奏で驚きがあった。ふと隣を見ると妻が寝ていた。前半の《奥の細道》ではあれだけギラギラしていたのに。第2、第3楽章をたっぷり睡眠とってたみたい。

 それにしても飯守さんの鼻歌?には困る。聴いている私たちだってマナーを守って黙っているのに、第2楽章の美しいフレーズにオジサンのだみ声が混じるとがっかりだ。お願いだから演奏中に声出すの、やめてください。

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