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三枝さんのレクイエム、武満さんの波の盆、柴田さんのシンフォニア

2013/7/13(土) 14:00~ サントリーホール
日フィル 第652回東京定期演奏会

柴田 南雄  シンフォニア
武満 徹   組曲《波の盆》
三枝 成彰  レクイエム~曾野綾子のリブレットによる

指揮  : 広上 淳一
ソプラノ: 釜洞 祐子
テノール: 吉田 浩之
合唱  : 東京音楽大学

今日のプレトークはよかった。
指揮者の広上さんと作曲家の三枝さんが登場、演奏前に本音トークを披露してくださった。広上さんは何とTシャツ姿、ざっくばらんな性格が伝わってきた。

前衛から聞きやすい曲へと作曲の方針を変更する大決断をしたこと、それによってメディアから総スカンを食ったこと、それが26年経った今でも変わらないこと、など、三枝さんの話は生々しかった。その話が事実だとしたら、なぜ前衛音楽でないとメディアの受けが悪いのか。なぜ聞きやすい音楽では記事にならないのか。またなぜそれが今日でも変わらないのか。音楽とメディア、音楽と時代の関係ってどうなっているんだろう、って考えてしまった。

また日本語は同じ意味を語るにも音数が多いという事実。また言葉には音の高さがあり作曲はそれに準じていること、典型的なのは演歌だけど、でも時々はずさないとつまらなくなること、など興味深い話であった。

現代音楽を聴く喜びのひとつは、同じ時代生きている作曲家のいわば生の音楽であること、またその音楽について作曲家本人の考えを知る機会があることだと思っている。特に今日は三枝さんの本音を聞いたし、会場には曾野綾子さんもいらっしゃったようだし、同じ空気のなかで演奏を聴けたことは貴重な体験であった。感謝。

とはいっても、正直、今日の演奏会は期待していなかった。高校時代にクラス対向の合唱コンクールを無理やり聴きに行かされる感覚だ。前述の素晴らしいプレトークを聞いて「まずは無心で聴いてみよう」って思い直して聴いてみると、確かにものすごい迫力と美しさであった。特に合唱の迫力はすごかった。ではあるけれども、やはり自分にとっては心には響かなかった。

その理由は自分でもはっきりわからないけれども、日本語でレクイエムを歌うことで宗教と音楽のつながりを改めて思い知らされ、さらにキリスト教を理解していないことを改めて思い知らされたこと、が主な理由かと思う。またモーツァルト、フォーレ、ヴェルディのレクイエムは皆好きだけど宗教曲という範疇を超えて音楽としてスゴイと思うのに対し、三枝さんのレクイエムは日本語の歌詞がわかってしまうためにどうしても宗教曲と意識せざるを得ない辛さがあるように思う。

もうひとつの理由は、日本語の合唱曲は前述の理由(日本語は音数が多い)からどうしても共通した「合唱曲臭さ」が出てしまうのではないかということ。高校時代の合唱コンクールを思い出す理由はここにあるのかもしれない。これは妻の推測。

これら演奏以前の問題を除いてみたとすると、気になったのは合唱の元気良さか。さすが学生の皆さんのせいか、迫力と元気良さが目立ち、お別れの寂しさのような気持ちは伝わりにくかったように思う。

一方で今日の演奏の中で一番印象に残ったのは「波の盆」。編成が小さいため、いつも見えないコントラバスさんの背中が見える。そのせいか、低音が心地よく響く。自宅の自慢のGENEVAスピーカを100個並べても生の音にはかなわない。身体全体で音を感じることができるのが演奏会のよいところだ。きれいな演奏だった。

またこの曲には日本人にしかわからない何かがある。ちょっと湿った夏の風のようなメロディーだったり、日本の風景を思い出させるような何かだったり。ブラームスの音楽はドイツ人でないとわからない、というドイツ人がいるという話を何かの本で読んだことがあるが、武満の音楽には日本人にしかわからないものがある、と思いたい。ノヴェンバーステップスの録音を退屈のあまり最後まで聴き通すことができない私があまり断言はできないが。

柴田さんのシンフォニアもいい演奏だったと思う。こういう無調の曲に拒否感はないのだけれども、曲からイメージできる映像が湧き出てこない。何も日本人作曲家でなくても、と思ってしまう。

今回は残念ながら感動することは少なかったけれども、帰宅後いろいろと考えることが多い、不思議な演奏会であった。

次回はワーグナーか。これも辛いな。

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